シニアと若者-異世代のコミュニケーションはできるのか? <中編>
「伝える」と「伝わる」。伊藤さんが代表をつとめる『asobot(アソボット)』は、この“隔たり”にこだわり、企業の事業や行政の施策、NPOの活動や市民の想い、性差によるジェンダーギャップ、そんな、ギャップをうめるためのコミュニケーションをデザインし、カタチにしています。今回は、「シニアコミュニケーション」をテーマに、若者や高齢者の世代間ギャップについて語り合いました。
伊藤剛(いとう・たけし)
1975年生まれ「団塊ジュニア/就職氷河期世代」
2001年「asobot(アソボット)」設立。ジャーナル・タブロイド誌『GENERATION TIMES』の創刊、『シブヤ大学』の設立など、さまざまな分野のプロジェクトデザインを手掛ける。東京外国語大学の授業では「PEACE COMMUNICATION」を提唱。著書に『なぜ戦争は伝わりやすく 平和は伝わりにくいのか ピース・コミュニケーションという試み』(光文社新書)がある。http://asobot.co.jp
桑原静(くわはら・しずか)
1974年生まれ「団塊ジュニア世代」
BABA lab 代表。WEBコミュニティの企画者を経て、リアルなコミュニティをサポートする世界に飛び込む。2011年『BABA lab』事業をスタート。シニアの働く場・学ぶ場・遊ぶ場の仕組みづくりに励む。「長生きするのも悪くない」と思える仕組みを多世代で考えることがミッション。https://www.baba-lab.net/about
2020/4/16収録(「ZOOM」による対話)
----------- 若者の言葉は軽くなっているのか?
>桑原
伊藤さんが20代で仕事を始めた2000年頃と比べて、社会の中でのコミュニケーション、あるいは言葉の変化を感じることはありますか?
>伊藤
ありますね。若者の言葉が少し軽くなったと感じています。
>桑原
“軽い”というのは、発せられる言葉に深さがないというか、言葉の背景に思考のプロセスが感じられないってことですか?「やばい」で通じちゃうような社会だということ?
>伊藤
前編で話した“セルフリテラシー”と関連している話です。僕や桑原さんの世代が若いころ、たとえば…悶々と書き留めた日記のなかに、表に出せない言葉っていうのがあったと思うんです。自分の中に悶々とした言葉があるのに、親友にはそれを隠しながらこれしか言わない、というような経験がありませんでした? 自分の中に言葉があるけど、それを言わないということと、自分の中にそんな言葉があるかどうかを意識していない、ということでは、違うと思うんですよね。僕らの若いころと比べてそういう“自分の中の言葉”に向き合う機会が圧倒的に少ないように見えるんです。言い換えれば、僕らのころよりも圧倒的に言葉にしたり、反射的なコミュニケーションをする機会が多すぎて、「言葉を溜めておく」という“時間”そのものがないのかもしれません。
わかりやすいのは、「いいね!」ボタンもそうですよね。たとえば、主義主張とか、その人の社会に対するスタンスとか、本来であればものすごくセンシティブに時間をかけて評価しなければいけないことに関しても、気軽に「いいね!」を押せてしまう機会が目の前に訪れる。極端に言えば、「そのラーメン屋いいね!」と同じ感じで「憲法改正いいね!」を押すこともできてしまう。
>桑原
いま40代の私たちの若いころは、スマホどころか携帯電話もなくて、インターネットもまだまだ黎明期でした。いまでは信じられない感じもしますが、誰が出るかわからない固定電話とか、10円玉を数えながら使う公衆電話とか、先ほど話に出た、誰かに見せることなく書いている日記帳とか、言葉を発するまでに考える時間があったり、自分の言葉に向き合わされる機会は多かったですよね。
「いいね!」ボタンの恐ろしさは、私もよく感じます。うっかり「いいね!」を押したために、同じような情報や同じような思想を持つ人があがってきて、いつの間にか偏った世界に生きてしまう…。
>伊藤
大した表明じゃなかったのに、あるスタンスを決めた瞬間から、インターネットやSNSのアルゴリズムのなかで、そういう情報ばっかり集まってきちゃう…。“できるだけスタンスを決めない”っていうのは、実は大事な“戦い方”かもしれないなと最近思うんです。「決めない」って精神的にタフな行為だと思うんですよ、グレーで居続けることの忍耐力が求められる。
>桑原
現代の若者は「いま」の空気感や瞬発的なレスポンスを求められる機会はすごく多いけれども、思考プロセスを求められる機会が少ないので、もしかしたら過去を振り返ったり、未来に思いを馳せるたりすることが難しい傾向があるのかもしれませんね。特に、自分の未来を想像するなんて億劫だし。とすれば、自分の未来であるシニアの生態を理解できないのも当然なのかな…。
>伊藤
『BABAlab』のアンケート企画でやった「境界線を考えるフレームワーク」というものがありますね。「おばあちゃんとおばさんの境界線は?」というフレームワークです。
あのフレームワークがもし「おばあちゃんとはなんですか?」という問いだったら、急に哲学的になって回答が難しいと思うんです。
でも、五・七・五とか、ダジャレとか、日本人って言葉遊びが好きですよね。だから、言葉遊びの顔をしながら、社会的な思考を深めるとか、そういった身近な言葉を使って自分の価値観を考えてみる、というやり方は可能性があるのではと感じています。
----------- なぜシニアは「あの頃はよかった」と言ってしまうのか
>桑原
一方で、シニアについてはどう思いますか?
>伊藤
これは、自分にも当てはまることがあるんですが…。
以前に、asobotで発行していたジャーナル・タブロイド誌『GENERATION TIMES』の中で、なぜ年配者が若者に「あの頃はよかった」と言ってしまうのかというテーマを取り上げたことがあるんです。いつの時代にも「世代論」が存在する理由は、年をかさねると新しい時代についていけなくなるかもという不安がある、その不安の個人的な処理方法として、他の世代には圧倒的に有利に立てるものを人は探すというわけです。
>桑原
“圧倒的に有利に立てる”というと、私が見ているところではシニアの、特に男性に多い印象があります。ここは“男性は”という文脈の話になりますか…?
>伊藤
うーん、確かに男性に多いかもしれませんね。僕も含めて。ちょっと痛いところを突かれてしまったかな、ひとまずここは男女問わずシニア一般ということで話を進めさせてください(笑)。
で、絶対的に優位に立てるのは、“他の世代が知らない出来事を知っている”ということなんだそうです。「昔は、携帯もなかったから、緊張して彼女の家に電話したんだよね」みたいな。40代の僕でさえ、次のデジタルネイティブ世代たちとは差を感じるわけで、つい「僕が若い頃は…」みたいなことを言い出しそうになる。それは世代論なのか、優位に立ちたいだけなのかと自問してしまいます。
さらに言うと、現在のシニア世代って、とてつもない変化を経験していますよね。特にテクノロジーの変化が大きかったのかな。信じてきた価値観が、通用しなくなるかも…という恐怖です。変化についていける余地はないとすれば、お金はあるので“イチ抜けた”という立場にいたほうが精神的に楽です。団塊の世代は、集団としてのボリュームもありますし、俺らは俺らでいきますよっていうスタンスもとれる。そういう感じはしますよね。
>桑原
今このコロナ禍で、文化も大きく変化していくのではと言われています。その変化が速すぎて思考が追い付かない、という人も多いと思います。思考が追い付かないから、思考停止になって、ただ現在の状況を「いい」とか「やだ」とか感覚で捉えるだけで毎日精一杯…多くの人がそういう状況にあるかもしれません。コミュニケーションの方法も大きく変わるでしょうね。
----------- コロナ禍で大きく変わっていく価値観
>伊藤
先日、僕の子供の小学校の入学式があったんです。今まで、学校というところでは、名前を呼ばれて「はい」って大きな声で返事して、友達をたくさんつくれる子が「いい子」だったのに、入学式でも大きな声を出しちゃいけないし、接触してもいけないし、学校現場も戸惑ってるんじゃないかな…と思いました。世の中が、今までと違うOSになったときに、何を信じてやっていくのか…と思いますよね。
世の中のOSと違うということでは、僕はこれまでSNSをやってこなかったですけど、SNSをやらないってことはこれからどういう意味を持つんだろうかとか…。
>桑原
伊藤さんは“SNSをやっていない”って私は知っているけど、世間一般からしたら、SNSをやっていない=この世に存在しない、ということになるかもしれませんね(笑)
>伊藤
ですよね(笑) あと、このコロナ禍で世の中のOSが変わっていく、ということで連想するのが、団塊世代のさらにうえの戦争経験世代の体験です。第二次大戦後にパラダイムシフトが起きて、価値観が崩壊した世代。昨日まで信じていた先生や大人の言葉を信用できなくなった世代ですよね。昨日まで信じられてきた価値観が真逆になった、ということを僕たちも歴史の知識としては知っていますが、このコロナ禍で、同じような価値観の転換が起きるのかもしれない。
僕たちより上の世代の人たちは、そういうビフォー・アフターを、小規模でも中規模でも、いろいろな形で経験してきたんだなと改めて思いました。つまり、自分が老いを感じるときというのは、体の衰えではなくて、次の価値観がわからなくなるときなのかもしれないなとも…。
>桑原
伊藤さんのような仕事をしていても、今後、新しい価値観に対応しきれないかもと感じるときがある、ということですか?どこかで放棄しそうだと?伊藤さん個人として、それはどう考えるんですか。
>伊藤
ちょっと仕方がないことかな、とも思いますよね(笑) もちろん仕事であれば、できる限りあがきますよ。つくったものを通して表現するならトライはできますし。ただ、個人的にと問われると、どうなんだろう…と。たとえば、これからイタリア人とコミュニケーションをとるために、イタリア語を覚えるって億劫ですよね。でも若い世代と本気でつながろうと思ったら、そこの言語を習得する必要があるわけです。
>桑原
コミュニケーションのプロである伊藤さんでさえ、そう感じたりするのであれば、シニアと若者をつないで、コミュニケーションをとるためには、何かしらのプログラムや工夫が用意されている必要がありますね。もちろん仕事ではないからシニアはあがいてくれないでしょうし(笑)
----------- 何が得で何が損かをシニアと若者に伝える
>伊藤
漠然と「コミュニケーションを取りましょう」ではダメでしょうね。具体的なイシューとかコトとかを通さないとダメですよね。「お年寄りを大事に」みたいな、思いやりのなかでのコミュニケーションは道徳的にはありですけど、実際的なコミュニケーションとして持続していくには難しいでしょうね。シニアと若者と、お互いが付き合うことに、“どのくらいお得感があるか”ということを、“何をもって感じてもらうか”ということが必要では、と思います。お互い付き合うことのメリットをふわっとした倫理的なことでごまかさずに、互いにとって、何が得で何が損かという「相互依存性」を具体的に示していく作業が必要ですね。
>桑原
私は若者にとってはメリットがあると思うんです。いつか年をとるわけですから。年をとるということを先取りして知るような仕組みをつくって、将来利用しましょうと。一方、シニア側は「自分たちの持っているものを次の世代に良い形で残しましょう」と言っても、共感してくれる人が少ないような気がしています。先ほどの話ではないですが、自らあがく、という人はやっぱり少ないと思います。そこの気持ちをどうやってつくっていけばいいのかについては難しさを感じますね。
>伊藤
そこはまさに桑原さんの腕の見せどころじゃないですか(笑)
僕や桑原さんの親世代である団塊の世代は、はっきりいって手ごわいですよね。量としての優位性がつくっているカルチャーがあります。同じように、われわれ団塊ジュニア世代に対しても、その下の世代は同じことを感じているかもしれない…とも思うんですよね。だとすれば、団塊世代のことがわかるのは、団塊ジュニアである僕らの世代かなという気がするし、何か上の世代にできることがあるとすれば、われわれの世代が動くしかないんでしょうね。
>桑原
私たちだって「次の世代に何か残したいか?」と聞かれれば、そんなこと考えたことないよ!ってなりますよね。そこでスイッチが入るようにするにはどんな仕掛けが必要なんでしょうね。コミュニケーションを促していくだけではなく、そこに至る段階として、若者には思考するプロセスに意識的になってもらうこと、シニアには“イチ抜け”ではなく、手放さずに次の世代に向き合うマインドセットを得てもらうこと。そういった段階を経ていくプログラムが必要なんでしょうね。そこはまさに『BABA lab』のミッションですね。