【対談】“シニアの入り口世代”が考える。異なる世代で構築できる未来

小林貴博さんは、民間シンクタンクの研究員として、個人や環境、経済など、さまざまな視点から地域をウォッチしてきました。プライベートでは、子育て支援を行うNPO団体の運営に携わっています。自身がシニアの入り口に差し掛かった現在、次の世代に何が残せるのか?今回は、「多世代で構築できる未来」をテーマに、ポスト・コロナ社会での新しい文化や環境の構築において、多世代で何ができるのかについて語り合いました。

※この対談シリーズは、2020年コロナ禍に企画したものです。

小林貴博(こばやし・たかひろ)

1959年生まれ「シニアの入り口世代」

シニアの入り口に立った自分たちの世代は“くびれ世代(人口ピラミッドのいちばんくびれたところ)”でもある、さらに「くびれだけでなく、若干くたびれてもいます」と言う小林さん。

一般社団法人日本リサーチ総合研究所の調査研究部長を経て、現在は『BABA lab』客員研究員。市区町村の経済調査や地域資源活用、民間企業の商品開発等、社会調査及びマーケティングリサーチを得意とする。プライベートでは、「NPO法人わこう子育てネットワーク」の理事として、子育て世代を支える活動に長年携わっている。

「高齢者インフレ」?

>桑原

緊急事態宣言が出てからは落ち着いたようですが、トイレットペーパーの買い占め、スナック通い、マスクの不使用など、一時期シニアの振る舞いに批判が集まっていましたね。

コロナ禍の中でこうした批判が出ているわけですが、その裏には、コロナ以前からの、超高齢化や経済の停滞、そこからの、終身雇用制度の終焉、介護制度の崩壊…と、自分が生きることだけで精一杯なのに、保障されない未来や老後のために、そして会ったこともない高齢者のために、なぜいま国に搾取される必要があるのか、と感じている人たちが大勢いることが理由のひとつだと思っています。実際に、そういう声を直接だったり、アンケートの回答だったりでいただくことがあります。

>小林

今日の超高齢化&少子化社会が来ることはもう数十年前から明らかだったのに、制度政策を立案し、国民にそれを誠実に説明すべきリーダー層が、彼らの認識不足や認知のゆがみ(旧来の家族制度やコミュニティや性別役割分業に対する執着)によって、社会の傷口を広げてしまったと感じています。

30年前から私は懸念していたことですが、高齢者の比率が増えれば、社会における高齢者の価値は相対的に低下し、社会からリスペクトされず、そうした一部の高齢者たちのモラル低下が起きます。私は勝手にこれを「高齢者インフレ」と呼んでいます。

「年をとってからの自由」ってなんだ!?

>桑原

昨年、『BABAlab』で実施したシニアを対象としたアンケートで「年をとってよかったこと」について聞きました。意外に思う人も多いかもしれませんが、70代以上の方の回答で「自由」をあげる人が多数をしめました。仕事や子育て、介護、結婚生活、そうしたものから自由になり、誰にも遠慮せずに自分の人生を生きる自由を謳歌するのだ、そういう回答が多かったんです。

ですが、言ってみれば、本来、人は自由ではないと思うのです、この地球に生きている限り、環境問題から逃れられる人はいないはずですし、後世への引き継ぎという役目だってあるはずです。すべてに自由にふるまうことが許されない場面もあるはずで。

「残り少ない人生くらい自由に生きたい」「もう死ぬから」という気持ちを持つのは理解できますが、少しわがままに生きすぎてはいないか?その“わがまま”が、後につづく世代を失望させてはいないか?とたまに感じてしまう場面があります。もちろん、次世代のために動いているシニアも周りにはたくさんいらっしゃいますし、これはシニアのことをずっと考えてきた私が、愛を持って“あえて言う”ということなのですが…。

>小林

「自由に生きたい」高齢者――私自身、今後の自分のことも含め、とても考えさせられるトピックですね。

シニアの入り口に立っている私からすると、これまでの人生で、仕事や家族のために自分を犠牲にして我慢し続けてきたシニアが、いろんなしがらみがなくなった途端に「自由な老後を生きる」って、なかなか難しいんじゃないかな…と思ったりします。そもそも、「自由」ってなんでしょうね…?

桑原さんが主宰する『BABAlab』のキャッチフレーズに「長生きするのも悪くないと思える社会」ってありますね。今まで我慢してきて、ようやく勝手気ままに暮らせるぞ~っていうシニアにとっての「悪くない社会」ということではなく、これから中高年になっていく次の世代の人たちが、「未来に絶望せずに歳を重ねられる社会」のことなんじゃないか、と私は受け止めています。そのためにシニアがどんな役割を担うことができるのかを考えるのが、長生きした人の責任なのかもしれません。

 口には出しにくい「淘汰圧」

>桑原

「長生きするのも悪くないと思える社会」――シニアにとっても、これから中高年を迎える世代にとっても、そうあってほしいと願っています。とはいえ、自分がシニアになったときに、次世代のために動くことができるのか?そこに自信はありません…。いつか年老いた自分は、“子供に背負われて姥捨山に行く”のでは? そんな風に思うこともあります。

近年、続いている社会全体の閉塞感や超高齢化社会を生きる不安が、当事者にも非当事者にも、切迫した具体的な形で姿を現しているのではないか、と思います。

>小林

こういう時期にこんなことを言うのは不謹慎でしょうし、人前で言うことではないと思いますが、今回のコロナ禍は、超高齢化社会における一種の「淘汰圧」なのかもしれないな…などと実は思ったりするんですよね。自分自身、淘汰される側だと思っていますが。

>桑原

先日、朝日新聞に、分子生物学研究者の福岡伸一さん(著書『生物と無生物のあいだ』を読んで以来ファンです)の寄稿がありました(デジタル版https://www.asahi.com/articles/ASN433CSLN3VUCVL033.html)。今回の新型コロナウィルス流行に関してどう見るか、という内容なのですが、要約すると、親子の遺伝を「縦方向」とすれば、生物が強くなるためには「横方向」に強くなる必要もあり、それを助けるのがウィルスだと。今回のウィルスで、人類は淘汰されようとしているが、“新しい免疫の確保”という進化が得られる、という話でした。歴史を積み重ねてきた人類ですが、いかに脆い存在かと思います。植物のほうが存在として断然強い。人間だからと奢って生きることのむなしさは強く感じたりもします。

>小林

福岡伸一さんは、分子生物学の専門家なだけでなく、文章家としてもいいですよね。私も大好きです。医学的な視点から見ると、病原体(細菌やウィルス)は「人類の敵」ですけど、ひとつの生物(ウィルスは生物とはちょっと違うけど)として考えると、やっつけるだけの相手ではないように思うし、やっつけること自体不可能ですよね。医学的視点も重要ですが、私には、福岡さんのような生物学的視点からのウィルス観の方がしっくりきます。

コロナ禍で文化にも崩壊が起きている

>桑原

話題は変わりますが、今回の騒動で、世界中の文化も危機に瀕しているように思います。欧米ではハグやキスが禁止されている状況ですし、先ほどの高齢者の話で言えば、「長老者を敬う」という、これまで日本人の道徳としてとらえられていきたものも、空々しく感じてしまいます。この文化が揺らいでいるような状況についてはどう思いますか?

>小林

結局、「文化は生命に劣後する」ということなんだろうと思います。逆に言えば、「衣食足りて礼節を知る」でしょうか。今日の人々の文化や習慣、さらには宗教の教義などについても、過去のさまざまな生命活動の必要性から発生し、残ってきたのだと思います。砂漠の宗教として、イスラム教やユダヤ教、キリスト教のような一神教が起きてきたのも当時の人々が生き残るために、当時としては合理的な選択だったのではないかと。

アメリカにおける9.11以降、日本における3.11以降の社会が、それ以前と同じではいられなかったように、このコロナ禍が終息した後の「ポスト・コロナ社会」も新たな構造化を模索することになるのだろうなぁと感じています。

ただ、「ポスト・コロナ社会」が、常にコロナの影に怯えることにより、社会的な生物である人間の実存を脅かし、否定するような社会になってしまうとしたら、コロナ対策なんてせずに、生き残れる人たちが生き残って、新たな社会を作ったほうがいいんじゃないかと、私は思ったりもしますね。

>桑原

「ノアの方舟」を連想してしまいました…。以前、文化社会学の先生に質問したことがあります。「文化は、若者が生み出すものなのか? それとも、今までは若者層が多数だったために、若者の層で文化が生まれたのであって、超高齢化社会はシニアが文化を牽引することもあるのか?」と。その先生は、文化は若者からしか生まれない、とおっしゃっていましたが、「本当にそうなのかな?」と(笑)

小林さんが先ほど言った「新たな構造」が今後できるとしたら、「年長者は敬う」とか、「上座・下座」とか、そうした文化や刷り込みは一旦忘れ去って、シニア世代と若者世代が向き合って、新しい文化を構築できたら素敵だな、と私は思います。

>小林

「文化は若者がつくる(若者にしかつくれない)」というのは、若者たち自身に多様性と多面性があり、他者の多様性・多面性を受け入れる柔軟性があり、なおかつ数的なボリューム(影響力)がある社会ではそうなんだろうと思います。

ただ、我が国のような超高齢化社会では、これから高齢者発の文化も出てきそうな気はします。高齢者の中にも新しい文化を生み出す柔軟な人はいるだろうし、そうではない高齢者もいる(もちろん若者たちも同様ですね)。

子ども、若者、子育て世代、中年、高齢者という枠組みを超えて、これまでにないようなおもしろいこと、ユニークなことを考えたり実践したりする人たちが相互につながり、受け入れ合ったり、応援し合う世の中になればいいなぁと思います。

子育て世代、若い世代とシニアの関わり方は変わるか?

>桑原

小林さんが理事として長年携わっている「NPO法人わこう子育てネットワーク」代表の森田圭子さんと先日お話ししましたが、今回のコロナ騒動の中で、ママたちの疲弊がすごいと。在宅勤務中にオンライン会議する間だけ高額な料金を払ってベビーシッターをお願いしているケースもあるとか。ただ、たくましいママも多くて、流行りの「zoom飲み会」でストレスを発散しているそうです。

>小林

コロナ騒動でママたちの疲弊はギリギリの状態になっています。準備期間もない急な学校休校のせいで、ストレスがかなり高い状態だったところに、4月からの緊急事態宣言と自粛要請で、ダブルパンチです。外出自粛の最初の頃は「家にいてすることがないから、コロナ・ベビーがたくさん生まれるのでは」なんていうデリカシーのない人もいましたが、今は「コロナ離婚」の方がしっくりくる状況なんじゃないでしょうか。

>桑原

「ポスト・コロナ社会」では、オンライン学習導入が進んで、子供たちも自宅が活動拠点になり、実際に誰かと顔を合わせる機会というのが、ますます減っていく可能性がありますよね。親のストレスも増えそうですけど…。先ほど話が出た世代を超えて実践する「おもしろいこと」「ユニークなこと」として、シニアが子育て世代にできることって、どのようなことが想像できますか?

>小林

コロナ以降、人と人とのコミュニケーションの形や、子どもたちの学びの形がどんなふうに変わってしまうのか(学校というシステムも変化せざるを得ない)、それとも変わらないのか、興味深いテーマですよね。

シニア世代の人たちが、子ども世代(子育て世代)や孫世代になにをしてあげられるのか、なにを受け渡せるか。昔に比べると、難しい問題になっているように思います。私が子どもの頃は、今のような情報社会ではなかったので、高齢者の知恵や経験は、子ども世代、孫世代にとってはそれなりにリスペクトの対象だったのですが、今は、じいちゃんばあちゃんに教わるようなことは、ほとんどがネット上の動画で学べてしまったりしますからね。

若い世代の自己肯定感を応援するためには、なにかを教えるということよりも(もちろん、若者がシニアからなにかを学びたい、受け継ぎたいという意向があれば、それには応えるべきだと思いますが)、ただいっしょの時間をゆったり過ごして、若者たちの考えや悩みや不安をきちんと聞いてあげることから始めた方がいいんじゃないかと思います。私がリスペクトしているある市民活動家は、こうした若い世代への寄り添い方を “なにげない日常をともにする”という風に言っています。

>桑原

現在、シニアは「何かをしてもらうのを待つ」「声をかけられるのを待つ」存在でしかないと思っている(あるいは思われている)と感じているのですが、シニアと若い世代の両者が「関わりたい」と思えるきっかけがあるとよいのかもしれませんね。

>小林

シニアの話を聞く「傾聴ボランティア」みたいな活動がありますが、シニアへの傾聴(それも大切なことだと思いますが)よりも、シニアが孫世代の話をじっくり傾聴し、その行動を見守ってあげることが大切なんじゃないかと思います。そうやって信頼関係を築いたうえでこそ、若い世代がシニアの知恵や経験を受け取ってくれるのではないでしょうか。

シニア世代がいま、次世代のためにできること

>桑原

まずは、シニア世代と若い世代の接点をつくるということが必要ですよね。BABA labの使命である、未来のために「長生きしても悪くない」と思える仕組みを社会に残す、ということに関して、シニアができること、それに続く世代ができることなど、希望やヒントになることはないでしょうか?

>小林

社会制度構築という面では、シニアは、私利私欲に走る「ジコチューシニア」にならないよう気をつけながら、次の世代が希望を持てるような制度づくりのために、政治を動かす原動力として動く必要があると思います。若者が投票に行かないことを嘆く暇があったら、自分たちシニアが若者の生きやすい世の中をつくるために投票すればいいじゃないですか。どうせどんなに健康なシニアでも、若者より長く生きるわけじゃないんだし(笑)。

一方、シニア自身の生活においては、これまでの人生の中で築いてきた有形無形の「資産」を、若者を含むより多くの人たちのために生かす努力をすべきだと思います。自分の子どもだけ、自分の孫だけがよければいいという考えも、立派な「ジコチューシニア」だと思います。

自分の子どもや孫が生きやすい社会であってほしいと望むなら、血縁者にお金や不動産を残すだけでは、実は充分ではないんです。むしろ、求められているのは、そうした資産や知恵やネットワークを活用して、次の世代を幅広く応援することなのではないか思っています。とりあえず、いろんな世代が集まり、助け合える「場」をシニア自身がつくってみることから始めるのはいかがでしょうか。幸い、シニア層は持ち家の方が多いと思いますし、ビルや貸家を持っている方もいるでしょう。その住まいをたとえば「住み開き」(※注1)したり、低廉な家賃で貸し出したりすることで、近隣の方人たちや趣味趣向を同じくする人たちの居場所づくりになります。そこから、自ずと次の世代が希望を持てるために必要なことが浮かび上がってくると思います。

※注1 「住み開き」とは、自宅や空き家、空き部屋、自身の事務所などを趣味の教室やカフェ、ギャラリーなどのコミュニケーションの場として開放すること。「週1日だけ」など、プライベートな部分を維持しながら他者とのつながりを持てる場として多世代から注目されている。

シニアは層としてのボリュームも大きいし、次世代のためにできることのポテンシャルも膨大に備えてきていることを、改めて意識していただきたいと思います。私も微力ながらお手伝いできることがあれば、なんでもやりますので。

>桑原

この対談の冒頭(前編)で「自由」について話しましたが、自由って、一人称では語れないものなんだと思いました。他人との関係性がないところでは、自分が自由だろうと不自由だろうと意味はない。「自由」って、家庭や職場、社会のなかで自身が責任をもって物ごとを選択して生きることだと私は思います。その責任の取り方として、小林さんが言われた、次の世代にバトンを渡すこと、バトンを“渡す”だけではなく“できるだけサポートをしていく”という意識が重要ですし、求められていることなのかもしれません。そして、私のような40代の中間世代のミッションとしては、シニアと若い世代をつなげるにはどうするのか? どうコミュニケーションをうながすのか? を模索することが求められているのではないかと感じています。“シニアの入り口”に立った小林さんにも、ぜひ、シニア世代、私のような中間世代、若い世代ができることを一緒に考え、お手伝いいただけたら嬉しいです。今後ともよろしくお願いします!

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【対談】シニアと若者-異世代のコミュニケーションはできるのか?

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