【対談】シニアと若者-異世代のコミュニケーションはできるのか?

「伝える」ことと「伝わる」ことの間にある“隔たり”。伊藤剛さんが代表をつとめる『asobot(アソボット)』は、この“隔たり”に目を向け、さまざまなコニュニケーションの中にある隔たりをいろいろなアイデアでうめる、そんな活動をされています。伊藤さんとの対談では、前編では「他者とのコミュニケーションとはどういうことか」を考え、続く後編では「シニアと若者-異世代間のコミュニケーション」をテーマに、若者や高齢者の世代間ギャップについて語り合いました。

※この対談シリーズは、2020年コロナ禍に企画したものです。

伊藤剛(いとう・たけし)

1975年生まれ「団塊ジュニア/就職氷河期世代」

2001年「asobot(アソボット)」設立。ジャーナル・タブロイド誌『GENERATION TIMES』の創刊、『シブヤ大学』の設立など、さまざまな分野のプロジェクトデザインを手掛ける。東京外国語大学の授業では「PEACE COMMUNICATION」を提唱。著書に『なぜ戦争は伝わりやすく 平和は伝わりにくいのか ピース・コミュニケーションという試み』(光文社新書)がある。http://asobot.co.jp

頭に浮かんだこととアウトプットが違う

>伊藤

『BABA lab』とのつきあいは、もう7年くらいになりますかね。こうやって改まって話す機会がないので、ちょっと照れくさいですね。

>桑原

伊藤さんには『BABA lab』のさまざまな事業を一緒に考えてもらっていますが、仕事以外の話をこうやってじっくり語り合ったことはなかったですね。

最初は『BABA lab』で開発した孫育て商品のプロモーションの相談で私が『asobot』を訪れたんですよね。伊藤さんからアドバイスを受け、『BABA lab』の事業は商品開発からサービス開発に軸を移していき、その後、『asobot』の影響をうけてメディアも始めました。おかげで、こうして伊藤さんを取材する機会ができました。

今回は、伊藤さんの得意分野である「コミュニケーション」をテーマに、若い人たちとシニアとの世代間ギャップや、私や伊藤さんくらいの中間の世代ができることについて、いろいろと話せればと思います。

さっそくなのですが、「世代間のコミュニケーション」についての話の前に、コミュニケーションをお仕事にされている伊藤さんには、ぜひコミュニケーションそのものについて、少し教えてもらいたいんです。

実は以前から聞きたかったのですが、伊藤さんは、「コミュニケーション」ということにとてもこだわっていますが、そのこだわり方として、コミュニケーションにある “隔たりやギャップ”を常に埋めようとしているのかな? と思うときがあるんです。なぜそんなに、ギャップを埋めたいのか…と、ちょっと思ったりするのですが(笑)

>伊藤

いきなり根本的なところから来ましたね(笑) 僕はファーストキャリアが広告代理店だったので、企業の要望を汲み取ってお客様に適切に伝えるというコミュニケーションが欠かせない業界にいた、コミュニケーションにこだわるのはそのせいもありますけど、いまの質問の回答としてはそうではなくて…原体験のようなことを答えたほうがいいのかな?

なぜギャップを埋めたいのか、と言われて思い出すのは、小学生のときにテレビで観ていた「ザ・トップテン」や「ザ・ベストテン」みたいなランキング形式の歌番組のことです。少し長い話になるんですがいいですかね?(笑)

僕は毎週番組で発表されるランキングを書き留めて、そのランキングに対して、自分の考えるランキングを作っていたんです。まず、歌手名と曲名を書いた紙を用意する。そして、その紙をひたすら並びかえるんです。作業自体は簡単なのですが、なかなかすぐに決まらないんですよ(笑)。10~5位くらいまでは感覚的に簡単にいけるけど、その後が大変。

>桑原

それは、ただ好きな曲を並べるだけではない、ということですか?そこに何らかの基準があるということ?

>伊藤

単なるそのときの自分の好みで決めるのではなく、一応、過去からの流れをもとに決めるんです。新曲が出ない週はランキングは動きにくいんですが、じゃあ4位と3位を入れ替えるべきか、入れ替えるなら理由は何かとか。この曲の順位を落とすのかとか、これまでの歴史をもとにランキングの変える部分、変えない部分を考えていく。だから深いところまで考えるようになるんです。

で、考えに考えてようやく自分なりのランキングが決まるとスッキリするんですが、スッキリしないときもあるんですよ。なんでだろう?と考えたら、自分の頭や心の中にあることを、「ランキング」という形に落としこむ作業がいかに難しいかってことに気づいたんです。自分の中にあることと、自分が考えるランキングという“アウトプットした形”はイコールではなくて、実は距離があるっていうことに気づいたんです。

>桑原

頭の中にあるものと、そこから生み出される形には距離がある、ということに気付いたと。そこを埋めることに興味があった、ということですね。

>伊藤

そう、そこが面白かったんです。頭や心に浮かんだこととアウトプットが違うことに気づいたのが面白かった、単に違うというだけではなくて、それは何か発見してる感じでもあるんですよね。文章を書いてはじめて、自分の考えや思っていることに気づくときってあるじゃないですか。アウトプットしないと自分の本音がわからない、みたいな。

ギャップに気付くための”セルフリテラシー”

>桑原

文章は本当にそうですね、「私ってこんなこと考えていたんだ」って気づくときがあります。外に向けた文章はもちろん、日記なんかだとまさにそうですよね。ところで伊藤さんは、日記は書いてました?私は小学生の頃から書いているのですが…。

>伊藤

日記的なものということでは、部活で練習日誌をつくっていました。陸上部の短距離選手だったのですが、毎週タイムを計測するんです。計測したタイムを書き留めておかないと、同じタイムでも昨日と何が違うのか、とか気づけないんですよ。そこから練習メニューをつくっていくのが好きでした。自分で自分をコーチングするみたいな感じですね。僕はひとりっ子なので、何をするにしてもそういうところがあったかもしれません。

>桑原

私もひとりっ子なので、その感じはわかりますよ(笑)。自分で自分をスケジューリングして、どんどんコーチングしていってしまうというか…。

>伊藤

そうそう(笑)自分で自分を見て、「このあたりに悪い癖がでてきたから、あえて刺激を与えて修正していこう」みたいに。そういうやり方が自分にあっていたし、セルフコーチングが好きなんだということにも気づきましたね。

>桑原

チームメイトにもコーチングしてたんですか?

>伊藤

やっていましたよ。悩みを聞いて弱みを克服するためのメニューを提案したり。今のコンサルティングの仕事に近いですよね。

でも、人の相談に乗るのが好き、というわけじゃないんです。その人が考えていることと実際の状態とのギャップを“本人に発見してもらうプロセス”が面白いというか。僕がランキングをつくりながら気づいた「頭の中と外で形にしたものとのギャップ」を、他人にも気づいてもらうのが好きなんですね。

>桑原

その人のギャップを埋めたいわけじゃなくて、ギャップがあるんだよ、と気づいてもらうことが面白いってことですよね。そこに気づかせるには、考える手法だったり、何かプログラムのようなものが必要ですよね?

>伊藤

そういう気付いてもらうためのプログラムが、今、自分たちがつくっているコンテンツにつながっています。コンテンツの形は本だったり、思考のフレームワークだったり、毎年の年賀状(※注1)だったりさまざまですが。

(※1)『asobot』の年賀状は、コミュニケーションカードゲームや、SDGS手帳など、単なる挨拶状だけではない、思考をうながすためのツールがついている。

自分自身でも、他人に対してでも、ギャップに気付くための土台は、「セルフリテラシー(自分を読み解く力)」だと僕は思うんですよね。たとえば、自分と他人の頭の中にある検索エンジンや蓄積しているデータは異なっているから、ある一つの話をしていても、全然違う景色を思い浮かべていたりする。だから自分はこう見えていると主張したいし、反対に他の人がどう見えているかも知りたい。自分と他の人の間にギャップがあるわけですが、そこに気付くには、まず自分とのコミュニケーションがないとできないですよね。

「伝わらない」が出発点

>伊藤

けれども、自分でも自分のことがわからないし、他の人はみんなそれぞれ違うんだから、そう簡単には“ギャップ”は埋まらない。僕のコミュニケーションの出発点は、「伝わらない」なんですよ(笑)。

>桑原

「伝わらない」を出発点にコミュニケーションを始める…なるほど(笑) 伝える手段としては、言葉とか、写真とか、いろいろありますけど、伊藤さんは何にこだわっていますか?

>伊藤

やっぱり言葉ですかね。先ほど話したとおり子供のころから歌謡曲が好きで、歌詞に影響されたりしていましたね。「ガラスの10代」というタイトルにときめいたりとか。光GENJIにときめいていたわけじゃないですよ(笑)「10代を“ガラス”って表現するんだ!」みたいな。なぜこの言葉に自分がグっとくるのか、なんで惹かれるのかを探索していました。これは今も同じですね。

>桑原

たとえば誰かが考えたことを明瞭に伝えるなら、やっぱり言葉の力は大きいですよね。一方で、言葉の難しさもありますよね?最近、霊長類学者の山際壽一さんと、芥川賞作家の小川洋子さんがゴリラとヒトについて語り合った書籍(『ゴリラの森、言葉の海』新潮社刊)を読んだのですが、そのなかで山際さんが「言葉は信頼を担保しない」とおっしゃっていたのが印象的でした。動物には表情だったり触覚だったり、嘘のつけない世界があって、コミュニケーションもそういう土台の上で交わされるので、そこに安心感や信頼が生まれるんだそうです。だけど、人間だけが使える言語は嘘をついたり、いくらでもごまかしたりすることができる。

>伊藤

言葉によるコミュニケーションの難しさは、いつも感じていますよ。言葉で伝えることの限界と可能性を行ったり来たりしていますね。どちらかといえば、限界を感じることのほうが多いかな…。でも、結局のところ言葉でしか思考できないし、自分を捉えようとすると言葉になってしまうから。

>桑原

自分の考えていることや、感覚とか感情を言葉で捉えようとする、というのは、まさに「セルフリテラシー」ですよね。

>伊藤

でも、先ほどの話のように言葉で捉えることってむずかしいんですよね。そもそも自分自身を捉えることが大変なのに、他人を理解するのはもっと難しい。みんながそれぞれセルフリテラシーを意識していたら、つまり、「自分自身も偏っている」と認識できていたら、コミュニケーションってもっとスムーズなのでは? と思ってしまいます。

>桑原

だから「伝わらない」を出発点にコミュニケーションを始める、ということなんですね(笑) 

 「異なる世代」という他者とコミュニケートしていくには?

>桑原

ちなみに、伊藤さんが「伝わった!」って思うときはどういうときですか?

>伊藤

僕の仕事の場合は、アウトプットとして表現した形がどう伝わったか、ということになるんですが、その表現には「わたしはこう思ってつくりましたけど、あなただったらどう思いますか?」という問いを含んでいることが多いです。その問いに対して、「わたしだったらこう思う」っていう思考が起きてくれたらいいなと思っていて、そういうことが起きたときは「伝わった」と感じて嬉しいですよね。

桑原さんとの打ち合わせのときにも、問いを仕掛けているんですよ。桑原さんが急に立ち上がってホワイトボードに絵を書き出すときがありますよね。ああいう「思考が回りだしだな」と感じる瞬間は面白いです。自己対話が始まったなと。逆にそうならないとつまらないですよね。

>桑原

伊藤さんの仕事って大変ですよね。当たり前ですけど自分以外はみんな他人で、思考プロセスや価値観はバラバラだし、無限のパターンと対峙しながら、相手に伝えなければならない…。

>伊藤

もちろん、失敗することもありますよ。ダメだったなと反省することも多いです。

僕がよくやるのは、自分自身が「わからないことがわかるようになった」経験を振り返って、そのプロセスを丁寧に解体するんです。そうすると、自分の“わかるようになった”というプロセスの中で、他の人にも応用できそうな部分が見つかったりするんです。

>桑原

「セルフリテラシー」って“自分との対話”なのだな、と伊藤さんと今日話して思いましたが、自分と対話するだけではなくて、自分の“思考のプロセス”から、他人とのコミュニケーションに生かせることを見つけていく、ということなのかなと感じました。

この後、若者とシニアのコミュニケーションの話題にうつりますが、「世代が異なる人たち」というのはまさに他者ですよね。異なる世代でのコミュニケーションにおいても、他の世代の人のことを考えるまえに、まず自分自身のことを考えていないと、お互い伝え合うことができないのかなと思いました。

>伊藤

世代間のコミュニケーションも、他者に「伝わらない」ということを出発点に始めるということですよね。他者にどのくらい伝わらないかっていう挫折体験は、僕は海外を旅して味わいました。環境や文化などさまざまな前提条件が違う人たちが世界にはたくさんいて、そこでは自分の正しさや正義も伝わらない。それに比べたら、なんて日本は伝わりやすいんだと思います。なぜなら「異文化」より、同じ日本の中での「異世代」のほうが伝わりやすいはずですから。少なくとも日本語という「言葉」が共通言語としてある。言葉を起点に、例えば「優しさってなんだろう?」と、さまざま世代で丁寧に考えてみる。そうやっていけば、コミュニケーションは比較的取りやすいような気がします。

若者の言葉は軽くなっているのか?

>桑原

伊藤さんが20代で仕事を始めた2000年頃と比べて、社会の中でのコミュニケーション、あるいは言葉の変化を感じることはありますか?

>伊藤

ありますね。若者の言葉が少し軽くなったと感じています。

>桑原

“軽い”というのは、発せられる言葉に深さがないというか、言葉の背景に思考のプロセスが感じられないってことですか?「やばい」で通じちゃうような社会だということ?

>伊藤

前編で話した“セルフリテラシー”と関連している話です。僕や桑原さんの世代が若いころ、たとえば…悶々と書き留めた日記のなかに、表に出せない言葉っていうのがあったと思うんです。自分の中に悶々とした言葉があるのに、親友にはそれを隠しながらこれしか言わない、というような経験がありませんでした? 自分の中に言葉があるけど、それを言わないということと、自分の中にそんな言葉があるかどうかを意識していない、ということでは、違うと思うんですよね。僕らの若いころと比べてそういう“自分の中の言葉”に向き合う機会が圧倒的に少ないように見えるんです。言い換えれば、僕らのころよりも圧倒的に言葉にしたり、反射的なコミュニケーションをする機会が多すぎて、「言葉を溜めておく」という“時間”そのものがないのかもしれません。

わかりやすいのは、「いいね!」ボタンもそうですよね。たとえば、主義主張とか、その人の社会に対するスタンスとか、本来であればものすごくセンシティブに時間をかけて評価しなければいけないことに関しても、気軽に「いいね!」を押せてしまう機会が目の前に訪れる。極端に言えば、「そのラーメン屋いいね!」と同じ感じで「憲法改正いいね!」を押すこともできてしまう。

>桑原

いま40代の私たちの若いころは、スマホどころか携帯電話もなくて、インターネットもまだまだ黎明期でした。いまでは信じられない感じもしますが、誰が出るかわからない固定電話とか、10円玉を数えながら使う公衆電話とか、先ほど話に出た、誰かに見せることなく書いている日記帳とか、言葉を発するまでに考える時間があったり、自分の言葉に向き合わされる機会は多かったですよね。

「いいね!」ボタンの恐ろしさは、私もよく感じます。うっかり「いいね!」を押したために、同じような情報や同じような思想を持つ人があがってきて、いつの間にか偏った世界に生きてしまう…。

>伊藤

大した表明じゃなかったのに、あるスタンスを決めた瞬間から、インターネットやSNSのアルゴリズムのなかで、そういう情報ばっかり集まってきちゃう…。“できるだけスタンスを決めない”っていうのは、実は大事な“戦い方”かもしれないなと最近思うんです。「決めない」って精神的にタフな行為だと思うんですよ、グレーで居続けることの忍耐力が求められる。

>桑原

現代の若者は「いま」の空気感や瞬発的なレスポンスを求められる機会はすごく多いけれども、思考プロセスを求められる機会が少ないので、もしかしたら過去を振り返ったり、未来に思いを馳せるたりすることが難しい傾向があるのかもしれませんね。特に、自分の未来を想像するなんて億劫だし。とすれば、自分の未来であるシニアの生態を理解できないのも当然なのかな…。

>伊藤

『BABAlab』のアンケート企画でやった「境界線を考えるフレームワーク」というものがありますね。「おばあちゃんとおばさんの境界線は?」というフレームワークです。

あのフレームワークがもし「おばあちゃんとはなんですか?」という問いだったら、急に哲学的になって回答が難しいと思うんです。

でも、五・七・五とか、ダジャレとか、日本人って言葉遊びが好きですよね。だから、言葉遊びの顔をしながら、社会的な思考を深めるとか、そういった身近な言葉を使って自分の価値観を考えてみる、というやり方は可能性があるのではと感じています。

なぜシニアは「あの頃はよかった」と言ってしまうのか

>桑原

一方で、シニアについてはどう思いますか?

>伊藤

これは、自分にも当てはまることがあるんですが…。

以前に、asobotで発行していたジャーナル・タブロイド誌『GENERATION TIMES』の中で、なぜ年配者が若者に「あの頃はよかった」と言ってしまうのかというテーマを取り上げたことがあるんです。いつの時代にも「世代論」が存在する理由は、年をかさねると新しい時代についていけなくなるかもという不安がある、その不安の個人的な処理方法として、他の世代には圧倒的に有利に立てるものを人は探すというわけです。

>桑原

“圧倒的に有利に立てる”というと、私が見ているところではシニアの、特に男性に多い印象があります。ここは“男性は”という文脈の話になりますか…?

>伊藤

うーん、確かに男性に多いかもしれませんね。僕も含めて。ちょっと痛いところを突かれてしまったかな、ひとまずここは男女問わずシニア一般ということで話を進めさせてください(笑)。

で、絶対的に優位に立てるのは、“他の世代が知らない出来事を知っている”ということなんだそうです。「昔は、携帯もなかったから、緊張して彼女の家に電話したんだよね」みたいな。40代の僕でさえ、次のデジタルネイティブ世代たちとは差を感じるわけで、つい「僕が若い頃は…」みたいなことを言い出しそうになる。それは世代論なのか、優位に立ちたいだけなのかと自問してしまいます。

さらに言うと、現在のシニア世代って、とてつもない変化を経験していますよね。特にテクノロジーの変化が大きかったのかな。信じてきた価値観が、通用しなくなるかも…という恐怖です。変化についていける余地はないとすれば、お金はあるので“イチ抜けた”という立場にいたほうが精神的に楽です。団塊の世代は、集団としてのボリュームもありますし、俺らは俺らでいきますよっていうスタンスもとれる。そういう感じはしますよね。

>桑原

今このコロナ禍で、文化も大きく変化していくのではと言われています。その変化が速すぎて思考が追い付かない、という人も多いと思います。思考が追い付かないから、思考停止になって、ただ現在の状況を「いい」とか「やだ」とか感覚で捉えるだけで毎日精一杯…多くの人がそういう状況にあるかもしれません。コミュニケーションの方法も大きく変わるでしょうね。

コロナ禍で大きく変わっていく価値観

>伊藤

先日、僕の子供の小学校の入学式があったんです。今まで、学校というところでは、名前を呼ばれて「はい」って大きな声で返事して、友達をたくさんつくれる子が「いい子」だったのに、入学式でも大きな声を出しちゃいけないし、接触してもいけないし、学校現場も戸惑ってるんじゃないかな…と思いました。世の中が、今までと違うOSになったときに、何を信じてやっていくのか…と思いますよね。

世の中のOSと違うということでは、僕はこれまでSNSをやってこなかったですけど、SNSをやらないってことはこれからどういう意味を持つんだろうかとか…。

>桑原

伊藤さんは“SNSをやっていない”って私は知っているけど、世間一般からしたら、SNSをやっていない=この世に存在しない、ということになるかもしれませんね(笑)

>伊藤

ですよね(笑) あと、このコロナ禍で世の中のOSが変わっていく、ということで連想するのが、団塊世代のさらにうえの戦争経験世代の体験です。第二次大戦後にパラダイムシフトが起きて、価値観が崩壊した世代。昨日まで信じていた先生や大人の言葉を信用できなくなった世代ですよね。昨日まで信じられてきた価値観が真逆になった、ということを僕たちも歴史の知識としては知っていますが、このコロナ禍で、同じような価値観の転換が起きるのかもしれない。

僕たちより上の世代の人たちは、そういうビフォー・アフターを、小規模でも中規模でも、いろいろな形で経験してきたんだなと改めて思いました。つまり、自分が老いを感じるときというのは、体の衰えではなくて、次の価値観がわからなくなるときなのかもしれないなとも…。

>桑原

伊藤さんのような仕事をしていても、今後、新しい価値観に対応しきれないかもと感じるときがある、ということですか?どこかで放棄しそうだと?伊藤さん個人として、それはどう考えるんですか。

>伊藤

ちょっと仕方がないことかな、とも思いますよね(笑) もちろん仕事であれば、できる限りあがきますよ。つくったものを通して表現するならトライはできますし。ただ、個人的にと問われると、どうなんだろう…と。たとえば、これからイタリア人とコミュニケーションをとるために、イタリア語を覚えるって億劫ですよね。でも若い世代と本気でつながろうと思ったら、そこの言語を習得する必要があるわけです。

>桑原

コミュニケーションのプロである伊藤さんでさえ、そう感じたりするのであれば、シニアと若者をつないで、コミュニケーションをとるためには、何かしらのプログラムや工夫が用意されている必要がありますね。もちろん仕事ではないからシニアはあがいてくれないでしょうし(笑)

何が得で何が損かをシニアと若者に伝える

>伊藤

漠然と「コミュニケーションを取りましょう」ではダメでしょうね。具体的なイシューとかコトとかを通さないとダメですよね。「お年寄りを大事に」みたいな、思いやりのなかでのコミュニケーションは道徳的にはありですけど、実際的なコミュニケーションとして持続していくには難しいでしょうね。シニアと若者と、お互いが付き合うことに、“どのくらいお得感があるか”ということを、“何をもって感じてもらうか”ということが必要では、と思います。お互い付き合うことのメリットをふわっとした倫理的なことでごまかさずに、互いにとって、何が得で何が損かという「相互依存性」を具体的に示していく作業が必要ですね。

>桑原

私は若者にとってはメリットがあると思うんです。いつか年をとるわけですから。年をとるということを先取りして知るような仕組みをつくって、将来利用しましょうと。一方、シニア側は「自分たちの持っているものを次の世代に良い形で残しましょう」と言っても、共感してくれる人が少ないような気がしています。先ほどの話ではないですが、自らあがく、という人はやっぱり少ないと思います。そこの気持ちをどうやってつくっていけばいいのかについては難しさを感じますね。

>伊藤

そこはまさに桑原さんの腕の見せどころじゃないですか(笑)

僕や桑原さんの親世代である団塊の世代は、はっきりいって手ごわいですよね。量としての優位性がつくっているカルチャーがあります。同じように、われわれ団塊ジュニア世代に対しても、その下の世代は同じことを感じているかもしれない…とも思うんですよね。だとすれば、団塊世代のことがわかるのは、団塊ジュニアである僕らの世代かなという気がするし、何か上の世代にできることがあるとすれば、われわれの世代が動くしかないんでしょうね。

>桑原

私たちだって「次の世代に何か残したいか?」と聞かれれば、そんなこと考えたことないよ!ってなりますよね。そこでスイッチが入るようにするにはどんな仕掛けが必要なんでしょうね。コミュニケーションを促していくだけではなく、そこに至る段階として、若者には思考するプロセスに意識的になってもらうこと、シニアには“イチ抜け”ではなく、手放さずに次の世代に向き合うマインドセットを得てもらうこと。そういった段階を経ていくプログラムが必要なんでしょうね。そこはまさに『BABA lab』のミッションですね。

若者はSNSにも限界を感じている

>桑原

話は変わりますが、この間「シブヤ大学(※2)」の運営陣が世代交代したそうですね。伊藤さんたち40代くらいから、学長が20代になりましたよね。今の20代の人たちは、私たち40代くらいの世代についてどう思っているんでしょう?

(※2 「シブヤ大学」は、渋谷区内のあらゆる場所を教室に、多様な授業を開催しているNPO法人。2006年の開校以来、36,000人以上が参加。伊藤さんは立ち上げから関わり、現在は理事を務める)

>伊藤

今、シブヤ大学で20代と接していて感謝しているのは、われわれの世代を排除していないということなんですよね。僕や桑原さんの団塊ジュニア世代って、団塊世代に反骨精神があるじゃないですか。終身雇用って何なの?とか、バブルって何なの?とか。同じく、団塊世代も、その上の世代にたいしてそんな感じで生きてきたと思うんですよ。でも、今の若い世代から、そういう印象を僕は受けないんですよ。若い世代と接していて僕が感じるのは、逆にアナログを知らないことで、自分たちを少し引け目に感じているところもあるのかなと。たとえば、「私たちって“写真を撮って現像を待つワクワク感”を知らないんですよね、SNSやメールがない時代の“電話がつながらないもどかしさ”を知らないんですよね」と。われわれの世代に対する“気遣い”なのかもしれませんが(笑)でも、「生きる上で大事なことで、知らないことがあるんじゃないか」という不安があるのかな…とふと感じたりします。

>桑原

ということは、先ほどの話で言うと、瞬発的なレスポンスのやりとりの中で、自分の発する言葉に向き合えていない、ということに気付いているわけですね。思考をしていないのではなくて、思考のプロセスを経ていないことに気づいている。SNSがそう気づかせているんですかね?

>伊藤

そうなのかもしれません。だからか、SNSにも限界や苦痛を感じている人も多いように思います。“みんなで一斉に止めれるんだったらSNSを止めたい”という若い人もいますし。インスタに写真をあげ続けているけど、常に走り続けさせられている感じ…というような。でも小さいころから存在していたものだから、どうしたらいいか自分たち自身もわからない。

>桑原

もしかしたら、そこをどうにかできるのも、実は私たち40代くらいの世代かもしれないですね。

>伊藤

僕が強く思うのは、彼らは「3・11世代」なんだな、ということです。今回、シブヤ大学の学長になった27歳の彼らは、3・11の影響で高校の卒業式が行われなかった。これからの将来を考える年にそういう経験をしたということが、彼らに大きく影響を残しているんです。3・11当時、30代半ばで社会人だった僕らが3・11に対して感じているのとはまた違う感覚ですよね。社会に対して、政治がダメだとか、大人が信じられない、というような感覚が彼らの根本にあるように感じます。今、コロナ禍で多くの人が感じていることと近いのかもしれない。

>桑原

そうですね。この状況で、若い人たちは、大人が信じられないとか、政治ってなんだろうとか、私たち以上に敏感に感じているでしょうね。戦後のパラダイムシフトと同じですね。

「人間らしさとは何か」という根源をとらえなおす

>桑原

最後に、今後のコミュニケーションの変化についてまとめていきましょうか。今日の話の中で私が一番ツボにはまったのは、SNSをやらなかったら伊藤さんがこの世から消えるかも、という話です(笑)。実際に、いま私と伊藤さんが話しているように、オンライン上のつながりが主流ということになると、「オフライン=社会に参加していない」というようになる可能性もありますよね。何が現実で、何がバーチャルかわからなくなるというか。

>伊藤

Twitterやろうかな…いや、やらないですけどね(笑) ひとつ思うのは、この状態が過ぎると、揺り戻しというか、オンライン上だけでは満たされずに「身体感覚」を求めるようになるでしょうね。「ハグしたい」みたいな、人恋しくなる。

ある意味では、時代の進歩が速すぎると思っていたので、立ち止まるきっかけになったのではないかなとも思います。

一方で「ソーシャル・ディスタンシング(対人距離の確保)」が続くと、VRで旅をするというような、 “人と直接会えない”状況を満たすコンテンツ開発が求められるとも思います。身体感覚的なものへの揺り戻しと、それをバーチャルに満たすコンテンツ…それがどうなっていくのか、僕も整理はついていないです。コミュニケーションの飢餓は高まるような気がしていますけど。

>桑原

生きているということの一つが、感覚や触感で感じることだとすると、人と一緒にいて感じる熱量というんですかね、誰かに触れたり、直に喋ったりすることで感じられることがなくなると、生きている実感が無くなってしまうんじゃないかと思います。バーチャルな世界で過去に行ったり、未来に行ったりはできるけど、「何のために自分は生きているんだろう」と、自己崩壊のようなことが起きるような気がします。

>伊藤

いま話したような、このコロナ禍での状況をポジティブにとらえるのであれば、「人間らしさとは何か」という根源をとらえなおす機会にもなると思います。僕はコロナの前から、このAI時代は「人間らしさとは何か」を考える時代だと思っていて、今まで哲学者やお坊さんしか考えなかったような問いが、AI時代になってお茶の間に降りてきたというか。

>桑原

そうなると、伊藤さんが取り組んでいる学習プログラムの出番ですよね。「人間とはなにか」「人間らしさはなにか」を考えるプログラム。

>伊藤

それはチャレンジしたいですね。そのプログラムをつくる過程で、つくる側の自分たち自身も考えていくというのが一番望ましい形ですかね。

それから、このコロナ禍の状況をポジティブにとらえるという意味でもう一つ。世代論として極端な話なんですが、この状況を乗り切ったあとに「あの頃は〇〇だった」とか「あんな時代もあった」とか、世代を超えた共通体験になるかもしれない、ということです。世代も国境も越えて、いわば「コロナ時計」とでも呼ぶべき世界共通の時間軸で生きているというのは、そうなかなかないことだと思うので。

>桑原

なるほど。「ビフォア・コロナ/アフター・コロナ」という共通体験の上で、隔たりがあると思っていた世代同士が、語りあえるようになるかもしれない…インパクトありますね。

伊藤さんの、プログラムにも大いに期待してます。『BABA lab』の使命としては、シニア世代が、そして私たち若い人との間に立つ世代も、どうやったら次の世代に目を向けられるのか。たくさんの声を集めていくことですね。

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