誰もが長生きする社会。シニアとこれからシニアになる人たちと「長生きするのも悪くない」と思える仕組みをつくっていきます。
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動きながら、考える。

石川寛子さん

『下町カフェ あみちえ』オーナー

 

『下町カフェ あみちえ』(以下、あみちえ)は、東京の下町と呼ばれる葛飾区立石にあるコミュニティ・カフェ。そのオーナーの石川寛子さんは、NHKの映像ディレクターを経てフリーランスでドキュメンタリーの世界で活躍後、いろいろな縁から立石でコミュニティ・カフェをオープンさせました。立石の街を駆け回りながら、地元の仲間との交流を深め、巻き込んでいくとてもパワフルな石川さんにお話しをうかがいました。

 

「生きるために働く」という選択からはじまった

―――まずは、NHKでディレクターになられた経緯からお話ししていただけますか。

今では考えられないかもしれないけど、私の学生時代は「結婚は早く。25歳過ぎたら売れ残り」と面と向かって言われるのが普通でした。親にはいつも「とにかく早く結婚しろ、結婚しろ」と言われていましたし。女子高、女子大と進んで、卒業したら結婚だと考えると、私は家事全般すべてが苦手だったので、結婚に全然向いていないなと思ったんですよ。当時『主婦のブルース』という曲が流行っていて、「この歌のようになるのは嫌だ!」とも強く思っていましたね。そこで、結婚以外にどうしたらいいんだろうと考えた結果出てきたのが、「生きるために働く」という選択でした。

―――当時、女性が「生きるために働く」という選択肢を選ぶのはかなりの少数派だったんですよね。

少数派ですよ、思いっきり。でも、事務仕事は私には合わないと思って、どんな仕事がいいかを考えて、TV局で裏方の仕事に就きたいと思ったんです。それからNHKの入社試験に受かって入局することになって。就職すると言ったら、母は体調を壊しましたね。

―――NHKの職場にはどれくらいの女性がいたのでしょう。実際はどんなお仕事をされていたのですか。

私が入局した年は、38名のディレクター職のうち女性は2名。その一人が私でした。その頃は、女性が担当する番組も限られていて、朝の情報番組『こんにちは奥さん』や『きょうの料理』などの女性向け番組ばかり。どれも苦手な分野で…。私はずっと『テレビろう学校』という番組に関わりたくて、「なんでその番組なの?」と言われ続けながらも、上司やまわりの社員に何度も掛け合いました。そうやって粘って言い続けていたらその番組に関わることになって、ろう学校(聴覚障がいのある子どもが通う学校)に通うお子さんのための番組をつくりながら、ある聴覚障がい害児の成長を追った作品を作りました。

―――そこからどのようにキャリアを積まれていったのでしょうか。

局内は基本的に年功序列で、現場から管理職になって、定年後は関連企業に嘱託社員で勤めるという流れ。実力があっても、上にはあがれない女性の先輩達を見たり、男性優位な職場の空気をヒリヒリと肌で感じて、ずっとここにいるのは難しいなと判断して、37歳で退局しました。それからはフリーの映像ディレクターとして働きまくりましたよ。ある時期は海外ロケを多くこなし、ひとつのロケが終わったら、また次のロケに飛び立つ生活を送っていました。

 

思い切って“すべて”を変えてみる

―――今につながるキャリアの転換期はいつ頃だったのでしょうか。

50代になってから。徹夜続きの編集作業がきつくなってきたんです。大学を卒業してから30年近く映像の世界でがむしゃらに働いてきて、これからは同じような働き方はできないなと。思い切って仕事を変える決断をしました。そこで縁があって働くことになったのが、立ち上がったばかりの葛飾区市民活動支援センター(以下、支援センター)です。30歳年下の施設長とデザイナーの女性、私の3人で、市民向けの講座企画など何でもやりましたね。講座の企画という仕事は、映像の世界にも通じるところがあって、講座の内容や講師を決めたり、日程調整、告知など、いろいろアイデアを考えて決めていくのが性に合っていました。講座を開催して、講師の先生や受講生と仲良くなって、次の講座でまたお会いしてというのが、私にはとっても楽しくて楽しくて。

―――支援センターに勤め始めた時は、どちらにお住まいだったんですか。

世田谷区の三軒茶屋から支援センターに通っていました。私は大田区出身で、葛飾区の立石は勤めるまで全く来たことがない土地だったんですよ。でも、講座を通じて立石の人たちとどんどん仲良くなって、これは住むしかないなと、当時住んでいたマンションを売って引っ越しました。立石って「昭和レトロ」という感じで、東京にある田舎。高い建物はなくて空を見上げると本当に広いんです。荒川や中川は身近な自然で、ユリカモメやサギも見られます。昔からの友人を立石に招いて街歩きをすると、みんな「外国の街みたい」と気に入っちゃいますね。

 

動きながら、考える。

―――支援センターからコミュニティ・カフェへはどのようにつながっていくのでしょうか。

いくつも講座を開催していくなかで、仲良くなった地元の受講生たちと気軽にお茶をしながら話せる場所があればと思うようになりました。支援センターは「行政の場」ということでルールもあるので、もっとフランクに立ち寄れる場所があったらなあと。そんな思いを持った矢先、「コミュニティ・カフェ」という存在を知ったんです。すぐにピンときて、それついて学ぶ講座に通い始めました。そして受講後には「立石にコミュニティ・カフェを作りたい」との思いがぐっと高まって、同じ思いを持つ仲間と出会う機会を作ろうと『コミュニティ・カフェを作ろう講座』を支援センターで開講しました。

―――すごいですね。石川さんの思いが加速してトントントンと物事が進展していったのですね。

私は思い始めると、もう体が先に動いちゃうんですよ。考えるのは、動きながら。たとえば、同世代にはネットが苦手な人も多いけど、私は使えるものは何でも使う主義。Facebookを始めたのも、支援センター時代に札幌在住の講師との連絡で必要になって、使いながら覚えていきました。それでチャンスを得られるなら、どんな道具も使えるものは使う。小さなチャンスを逃さないように、そこから一筋の光を得て、段々といろいろなところにつながっていく。そうやって、私が主催した講座で知り合った仲間が『下町カフェ あみちえ』の立ち上げメンバーになってくれて、今に至っているわけです。

―――やると決めたことに果敢に挑むエネルギーは、一体どこからきているのでしょうか。

おそらくドキュメンタリー映像の仕事の影響じゃないかしら。先ほど話したろう学校のお子さんの作品を撮るとなると、四六時中、学校や家の中も入っていくんです。家族にしてみれば負担になるのは当たり前で、ある時家族と険悪な感じになって。それでも踏み込んで撮らなきゃいけない。その時、同級生のお母さん達がお子さん家族との仲を取り持ってくれて、どうにか撮影は進んだんだけど、こんな感じのことは毎度のことで。経営破綻した山一證券の社員家族の取材もしたけれど、嫌なことって話したくないじゃないですか。でも、そこから話を聞いて信頼関係をつくって映像を撮る仕事を長く続けていたこともあって、私、しつこいんですよ(笑)。諦めない。頭で考えるよりも、現場に行って、本人に会って、話を聞かないと分からないことってたくさんあるから。『あみちえ』を立ち上げる時も、知人、友人、出先で会う人、いろんな人に声をかけて、それこそこの場所を貸してくれたまことさんとの出会いも含めてね。

 

歳を重ねて、改めて思うこと。

―――お話しを伺っていると、石川さんにとって「仕事」から受けた影響は本当に大きいものなんですね。

「生きる=働く」ことですからね。だから今も働いているんだと思いますよ。一時、結婚の話もあったんですが、それもご縁がなく過ぎていって。昔さんざん「一人だと年取ってから寂しいよ」と言われ続けたけど、今はというと、立石の仲間や友人達に囲まれて、毎日お店のことで忙しくて、全然寂しくない。いい意味で、言われたことを裏切って生きています。もし寂しくなることがあったとしても、自分が納得しないことはしないと決めています。

―――これから先の人生については、どのように考えているのでしょうか。

私たち団塊世代の青春時代って、学生紛争真っ盛りだったんです。私は政治活動には興味がなくて、外から見ていた感じだったけれど、年を重ねてきて、はたして私たちが作ってきた社会はよくなったのかと自問したりして。私たちの世代は、どこか体の中に社会や大きな体制に対して、反骨心を持っているみたいです(笑)。まわりの同年代は子どもの独立、夫や自分の定年、親を見送るなどのライフステージの変化を迎えていて、団塊世代の新しい年の重ね方っていうか、同年代の経験を掘り起こしして、もうひと踏ん張り一緒に地域のために何かしたいなと思っているんですよ。

―――それは、この街の『呑んべ横丁』を含む立石の再開発にも関係していることですか。

再開発については、決定事項なので今からひっくり返すことは難しいけれど、『呑んべ横丁』や立石の人の顔が見える町がなかったことにはしたくない。微力ながら呑んべ横丁の冊子を作ったり、2017年6月から「立石らしい」まちづくりに向けてのフリーペーパーをだしたり、イベントを開いたりと私ができることはこれからもしていくつもりです。

まちづくりに関して、私がとても共感するお話があります。墨田区に『さくらんぼ公園』というのがあるんですけど、公園の名前は特に意味のあるものじゃなかったらしく、ある時幼稚園児のお子さんが「さくらんぼ公園なのにさくらんぼの木がない!」と先生に言ったそうです。それを聞いた近所の人が、「確かにそうだ」と何度も行政にお願いに行ってある年に桜の木を三本植えました。それから三年経って花が咲いて、さらに三年後には実がなってと何年も時が過ぎて、今では近隣の幼稚園ではさくらんぼ公園での「さくらんぼ狩り」が行事になって、毎年たくさんの子どもたちが公園を訪れているそうです。更に年月が経てば、「公園にさくらんぼの木がない」という話から始まったことや、誰が木を植えたとかの記憶はなくなっていって、さくらんぼ狩りをした子どもが大人になった時に「さくらんぼ狩り、楽しかったな」という思い出だけが残っていく。

この話を最初に聞いた時、まちづくりはこうであって欲しいと私は強く思いました。この桜の木のような存在は街の誇りになると思うのです。私がしてきたこと、今していることも、覚えてもらうこともないし、みんな忘れちゃってもいい。そこに住む人の思い出に残るような何かがあるまちにすることに少しでも役にたてれば。私も死ぬ時に目をつむりながら、「人生、あー楽しかった」で終われば本望ですね。 

 

石川寛子(いしかわ・ひろこ)さんプロフィール

1948年生まれ。東京都出身。NHKの映像ディレクターを経て独立、
長年ドキュメンタリー映像の世界に携わる。
その後、葛飾区市民活動支援センターに勤務し、2014年3月に『下町カフェ あみちえ』をオープン。

https://www.facebook.com/shitamachicafe.amitie
 

人生で大切にしている「座右の銘」
「この世を私が生まれたときよりもより良くして残したい」
(荒川の治水工事を行った青山士の座右の銘で、天文学者・ハーシェルの言葉)

40歳の自分自身への「メッセージ」
心配しなくてもなるようになる!


執筆:渚いろは/写真:原光平